JUKU教育新論

塾長  大澤 正人

1.商売にもタシナミがある

 塾というものはあくまでヨケイモノだ。すでに学校というものがある。それ以上のことは自分でやればいいんだ。学ぶ場所がなかった江戸時代の寺子屋とはわけがちがう。それなのに法外な授業料を取って小手先の受験対策をやる塾がはびこるのはどうしてか。一向に解消されない学歴社会とそれを背景に親がいだく「教育への幻想」があるからだ。確かに有名校に合格すれば「月謝が高い」と文句を言う親はいない。だからといって合格のための受験ノウハウを売りモノにするのは便利屋でしかない。便利屋だからいけないというのではない。それも立派な商売だ。でも、便利屋でしかないという自覚がそういう連中に一体あるのか。実際はずいぶん偉そうな顔をしている。高額な授業料をとる。それは自由だが決して教育者面をしてほしくない。

 そう言うお前も塾をやっているじゃないか、と言われるに決まっている。その通りだ。だから私は「教育者面」をしたことはない。「教育の幻想」の闇を食らっていることにおいては同じだが、塾生を有名大学に合格させたからといって自分が立派な教育者であるかのごとくに錯覚するようなアホな連中とは少し違うつもりだ。そこで、実際にどう違うのか、私の塾の経営について書いてみる。それがまず根本的なことだし、読者にとっても具体的に塾を知る手がかりになる。

 授業料はできるだけ低く押さえる。生徒の月謝で飯を食ったり酒を飲んだりしているのだということを忘れない。これに尽きると言ってもいい。学校の教師といえども実は同じなのだ。税金と言うワンクッションが入るだけの違いだ。「教師は聖職だ」などとは思わないが、少なくとも教師の端くれとしてたしなみがある。そういう姿勢で三十年やってきた。とうとう十年ほど前に値上げした。それが今の額だ。「授業案内」のページに書いてある通りだ。三十年近く一緒にやっている同僚の講師に泣きつかれた。

 「大澤さん、今度は上げてください!」

 それまでやれてこれたのは家主に家賃をまけてもらったり、寄付があったりしたからだ。塾は元手がいらない、黒板と椅子と机があればできると考えている人もいるが、なかなかそうはいかない。塾の経営も金は掛かる。紙代だけでも年間何万とかかる。


 「家賃をまけてくれ」
 と言いに行ったとき家主は青い顔をした。私は彼の息子を教えたこともあった。そこにつけ込むというのではないが事情を話して理解を求めたわけだ。彼には相当な剣幕にうつったようだ。

 「半額に負けろ!と言いに来る店子も初めてだが、脅かされて半額にする大家もねえだろ」

 奥さんにそう言って嘆いたらしい。おかげで少ないながらも自分の給料分が出た。大学などに合格したお礼と言って数万くれようとする人が毎年何人かいる。はじめはお断りしていた。その後、塾に寄付してもらう形にした。それで本や資料や維持経費が出た。これも大きい。


 しかし、今度は家主に
 「家賃をもとに戻してくれ!」

 と泣きつかれた。

とうとう授業料を値上げした。その代わり「塾長裁量」というものを設けて経済的に余裕のないものを救おうというわけだ。その路線で今日までやっている。このことを友人に話すと

 「あなたは実に甘い。お金があってもないというのが世の中です。本当にない人でも子供の将来のためには無理をして出すのです。あなたのように同情してすぐに割引をやっていたのでは無理して支払っている人はどうなるんです。それこそ不公平でしょう。世間の人はあなたが考えているほど困っていませんよ。一番困っているのはあなたですよ。ご自分の生活を考えてみてください」

 まったくその通りかもしれない。

 「不公平にならないように気をつけている。問題は世間が納得するかどうかじゃない。自分が納得するかどうかだ。」
 などとカッコイイ返答をして、その後相変わらず苦しんでいる。

 「安かろう悪かろうで却って信用されませんよ!」

 などと露骨に意見をする人もいた。

 「安かろう良かろう、という世界もあるのだということを知らせる仕事ならやりがいがあるじゃないか」

 またまたカッコイイことを言ってしまった。やはり自分はどっかアホなのだろう。しかし、こういうやり方が私の流儀でありタシナミなのだ。

 次にどういう学生を相手にするか、人数などの規模をどうするかという問題だ。入塾テストをして成績優秀な学生を集めるやり方はとりたくない。またミニ学校のような経営はしたくない。それでいろいろ試行錯誤した結果

 いっそ「教わりたいものは誰でも来い!」

 という形になった。小学一年坊主から大人まで誰でも引き受けようというわけだ。それで実際三十年間やってきた。いろいろな学生たちにめぐり合った。一人の生徒を九年間教えたこともあった。5年以上付き合った塾生だけでも百人は超えているだろう。小学一年生も浪人生も大学生も大人も教えた。元気な人も精神を病んでいる人も教えた。それは明らかに修行というものに近い。でも

 「生徒を選ばなくてよかった」

 と今では思っている。できる生徒だけ選んで教えるのならこんな楽なことはない。それにいわゆる「有名校合格の実績」ももっとつくだろう。ところがそうじゃない道を選んだことでとことん生徒から学ぶことができた。何を学ぶかというと自分の無力さを学ぶのだ。

 少々丁寧に教えたからといってわかるような連中じゃないといった手強い生徒に対して初歩的な思考訓練をやっていると、ものを考えるというのはどういうことなのかという根本的な問題をつきつけられると同時に、何てヘンテコなことを考えるんだ!と、思わず人の思考の幅の豊さに打ちのめされる。

 ある意味でそれは脅威でもあった。小さい頃から合理的な理性の雛型を思考の範として教えられてきた者にとって、いわゆるできる生徒たちが示す思考の軌跡は安心したものに見えるが却って教わるものは少ない。いわゆる出来ない生徒たちが苦し紛れに見せる魔術的とも言える思考のからくりを日々見せ付けられていると呆れもするが感心もし、驚きもし、また、脅威ですらあった。そこにこそ「教える」という行為のぬきさしならぬ緊張の場所を私は見出したのだ。

 選りすぐった粒よりの学生を教えるのは楽だ。それはそれで十分意味のあることだ。かつて学生の頃、たまたまできる生徒のグループ指導をアルバイトで引き受けた。お互い刺激し合い負けまいとして勉強する。質問もよくする。三人とも同じ有名校に入った。そのときは親たちから神様のように感謝された。ところが私は何もしなかったのだ。質問に答え、刺激になるような課題を出し、どんどん問題を解かせ、時々テストする。そんなこと以上やらなかった。集団学習の力学とも言うべき効果が作用したのだ。巧まずしてうまくいくのは、生徒達の資質や自主性がうまく結びついて予想外の効果を発揮するときだ。そうざらにはない。

この世界で人を突き動かしているのはジェラシーとコンプレックスと恐怖だ。大人の世界のそれらが子供の世界にまで入り込んでくる。できる生徒と競わせて鍛えようとする親心とは反対に子供はいたく傷つく。人を出し抜き、してやったりと喜ぶ子供にはいいかもしれないが、そうでない子供には塾は学校以上にストレスを感じる場所になってしまう恐れがある。そういう塾では金が儲かっても気持ちの良いものではない。

 「月謝が安くて面倒見が良ければ生徒が集まり過ぎて困るでしょう」

 などと心配してくれる知人がいるが、そんなこともない。以前急に増えたことはあったが、それは一時的なものだった。地域密着型の塾では生徒が増えるときは友達と一緒に団子になって入ってくる場合だ。ある地域ではクラスの三分の一が同じ塾に通うなんていうのがある。私の塾ではそういう通塾を認めてない。それでは塾が子供のサロンになってしまって、とても一人一人を育てるというわけにはいかない。

 それに長い間にできた塾の気風というのがある。それは口伝えに伝わるものだ。例えば、アソコの塾長はコワイといったうわさは燎原の火のように伝わる。だから初めから敬遠して来ない人も多い。以前は宣伝というものをまったくしなかった。看板も入り口に小さいのがあるきりだった。そういうこともあるかもしれないが、近所でも知らない人はいる。さすがにそれではまずい、というので最近は新聞の折込みに手作りのチラシを入れたりするが、そんなもので簡単に生徒は集まるものではない。やはり紹介か口コミだ。

 そんなわけで、「金は安く、生徒は選ばず」でやってきた。これは私の塾経営のタシナミだと思っている。たかが塾のオヤジではあっても本音で勝負しようという矜持をもっていることだけはわかってほしい。
(続)